わからないなりに広告のことを考えてみる日でした、今日は。
社内の回覧でJAAA REPORT 6月号、臨時増刊号『第42回懸賞論文 入賞・入選作品集』と 『2012年クリエイターズ・オブ・ザ・イヤー特集』が回ってきたので、じっくり目を通した。
広告代理店の同期と「KIRINのどごし夢のドリーム:カンフースター篇」についてTwitterでやりとりをした。
さらに今日はさとなおさんのブログ「さなメモ」に『広告とは「アウェイの技術」』というエントリが上がっていた。
どうせうまくまとまらないので、いつも書くのをあきらめていたけど、うちの会社を出て、活躍している先輩の立派な論文を読んだり、同期のデザイナーのコラムを読んでしまったので 今日はわたしもちょっとだけ書いてみようと思う。
脳が反射的に反応して記憶してくれていることばを引っ張り出す。
- ホーム/アウェイ
- 認知的不協和
- 人格広告
- 広告に感動する、広告で泣く
- 「鉄道と仏像のあいだで」
最後のひとつは、同期デザイナーのコラムのタイトル。わたしもそこに居た、というか今も未だ居る。
2012年クリエイターズ・オブ・ザ・イヤーを受賞された伊藤公一さんはインタビューでこう語っている。
企業の振る舞いがあたかも一人の人間の生きざまのように見えれば・・・ 僕らの中では企業広告のことを「人格広告」と呼んでいます。
この「人格広告」という捉え方をみたとき、なんかいいと思った。でも、まあ別にそんなに大それたことではないかもと思い直したり(失礼でごめんなさい、ごめんなさい)。
伊藤さんは現在、100%ホンダの仕事をしているそう。
自分自身、ハウスエージェンシーに身を置いているので、 ひとつのクライアントのことを四六時中考えている。だからこの「人格広告」という感じはとても共感する。
今はスタッフ部門にいるから直接のクライアントとの関わり方は変わったけど、マインド的には営業部の時から変わってないし、むしろもっとそうなってる気もする。
そして困ったことに、わたしは新幹線のことがどんどん好きになっていて プライベートまでその好きは浸食してきている。いやまあ、困らないか、別に。
コミュニケーションを恋愛に例えるみたいなのは 原点回帰というか基本動作ではあるけど、あんまりやわらかいことばっかり言うのは、頭の悪さのを露呈するだけなのであれだけど。私が好きな人をまだ知らない人に紹介したくてたまらないので、どうしようかということをが原動力になってて ああでもない、こうでもないとごちゃごちゃやってるのが私の仕事なのかな。どうなのかな。わからない。
ただなんとなく、さとなおさんの掲げた「広告とは『アウェイの技術』」というエントリにあるココにつながってくるような気がする。
情報が多すぎてうざいくらいなこの世の中で、新しい情報に触れてもらう、それは邪魔だし迷惑。つまり超アウェイですよね。そう、情報産業にとって今は超アウェイな時代なんです。そんな時代、アウェイでの技術である「広告」は、コミュニケーションの基礎になるものだとボクは考えています。
なんだろう。
「広告」という上位概念のもとで/もとに"超アウェイで情報を届ける方法"を考えて、 それを進化させて「コミュニケーションデザイン」や「ソリューション」に昇華する…? ビークルとなるメディアやそれを管理・最適化するテクノロジーとかは「ソリューション」に含まれる…?
まだ「広告」の骨格標本をなぞる/いじくるのは私には早すぎるようなので、ひとまず大先輩にまかせて、いち生活者として感じるところからの「広告」のことを考えてみることにする。
「広告」に対してバイアスは多少(いや結構)掛かってしまうけれども 情報が多すぎてうざいくらいなこの世の中に同じく生きている人間として、"どうやって「穏やかかつ自然に」情報を届けるか。届けた上でどう愛されるか。" ということについて考えに考え抜いて届けられたアウトプットにうっかり泣かされてしまうことがある。
最近だと、それこそクリエイターオブザイヤーの審査員特別賞を受賞された福部明浩さんが手がけられた 「カロリーメイト とどけ、熱量。篇」(ブログにも前に書いた)はもちろん、 最近いろんな方が良いと褒めている「KIRIN のどごし夢のドリーム カンフードリーム篇」とか。
あまのじゃくなので、みんなが手放しで良いと言ってるので、身構えて引いてしまっていたのだが、そのCMに言及しているいろいろなエントリを読んで、これはやっぱ見てみるか…と思い、電車でうっかり再生していまい、そして泣きました。
(広告じゃないけど、4月に行った「ニコニコ超会議2」でも実は泣きそうになった。)
精神論で語るとか、浅いなあと自分でも思うけどこれは本質だと私は思っているので仕方ない。本気とか一生懸命はうつくしくて、どうしようもなく心が動いてしまう。
正直私は、「のどごし夢のドリーム」シリーズがずっと苦手だった。感動させようと迫ってくる感じがどうしても。だからあんまり興味なかった。そうやって苦手だと感じるのと同時に「広告だからしょうがない」って思ってしまうのもまた悲しいことなんだけど。
ただ「広告」のくせに(という表現が適切かどうかは微妙ですが)『願いは叶う』というそれ自体が夢みたいなものが夢じゃなくなるところを見せてくれたのが、カンフードリーム篇なのかな。だからとても好きになったんだと思う。(人格広告の話にもつながるかもね。)
同期のデザイナーは、こんなことばでコラムを締めくくっていた。
かっこいい鉄道、きれいな仏像。あるいは、感動する鉄道、かわいい仏像。かもしれません。 何を伝えたいのか、その時々によって抽出する要素は変わると思いますが、 私はいつか、新幹線や奈良の仏像のポスターをみたサラリーマンのおじさんが、 ほろりと涙を流してしまうような広告をつくりたいな、とひそかに思っています。
と。
「広告」に感動する、「広告」に泣かされるってどういうことなんだろう。泣きたいとか全然思ってないけど、ふと心をつかまれてしまって…みたいなことが起こせるといいのかな。世の中が感動とか泣けるものばっかりでも気持ち悪いけど、多分そういうことではなくて。理解しよう、解剖しようとすればするほど、わからなくなって困る。
秋山昌さんの「ひとりでいい。ひとりでなくてもいい。」というコピーに救われた私が広告業界での仕事につくことを志し、身を置き、今までやれたことと、これからやりたいこと、やるべきことに改めて思いを巡らす。
結局最後は永遠の迷路である自分探し的なところに着地してしまうところが、なんとも未熟ではずかしい。先輩達のように「広告」にしっかりと対峙し、論じたり、実行したりできるように、もっと客観的かつ論理的な思考を手に入れ、冷静かつ情熱的に仕事に励みたいものです。
ニコニコ超会議で感動したことについては、またちゃんと自分自身の整理のために書こうっと。
以上、お粗末様でした。