見えないものを見る。

"見えないモノが見えたらいいのに。たとえばあなたのやさしさだとか。"


高校生の時に、こんなこっぱずかしいことばを
webという大海に無防備に放り投げていたことを思い出し赤面しそうになる。
(でも、今でも見えないものが見えたらいいなとは思う。)


「見えないものを見る」ということについて、
博報堂生活総合研究所 所長の嶋本さんの書かれたことばが
とても良いと聞いて、読んでみました。


【参考URL:所長メッセージ | 生活総研 ONLINE


以下、上記URLの内容を引用・抜粋。

博報堂生活総合研究所 所長
嶋本 達嗣
Tatsushi Shimamoto


見えないものを見る


「ものの見方」とは、あらかじめそこにあるものではありません。
見えないものを見出そうとする者によって、はじめて創造されるものです。
それは夜空に星座を見出す行為と似ています。
ひとつひとつの星は、誰にでも見えますが、
星列の間に白鳥やさそりの姿を見るには創造力が必要です。
私は、その創造力とは情熱と技術であると思います。



夜空に無数に散らばる、何億光年も昔からやってきた光を
点と点に見立てて、線でつないだ、その創造力溢れる行為を
ロマンチックということばではまとめたくない。
あらかじめそこにあるものでないものを、見ること。
そこには情熱と技術で叶えようとする、人間の努力が垣間見える。


Holistic――多面的。
ホリスティックにものごとを観察し、考察し、行動すること。
見えないものだけでなく、きっと今見えてるものに対しても
同じように対峙してみたら、見えなかったものが見えてくるのかも。


わたしは本当にアホなので、多面的にものごとを見てみようというこの話から、
「Cogito, ergo sum」ということばが頭に浮かぶのかよくわからないのですが、
私が考えたり、疑ったりすることで、そのように意識しているところの
自分だけはその存在を疑い得ないとなるのであれば、
見えないものについて思索している自分自身が居ることで
見えないものの存在が疑い得ないものになったりしないかなと考えたようです。
論理が破綻している・・・。

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